【12月7日 CNS】中国文明の長い歴史の中で、関公(関羽、Guan Yu)の崇拝は、中国社会で最も広く、廟が最も多く、大衆における基礎が最も堅固に確立されている。関帝廟は世界に3万以上あり、国内外の孔子廟を凌ぐ数と規模を誇っている。

 関公は日本でもかなりの影響力を持っている。横浜の関帝廟は明治6年(1873年)に創建されたが、何度も被害を受け、1990年に在日中国人による資金調達で再建したものだ。

 中国の歴史の中で、関公のイメージは、民間伝承や演劇・曲・詞、小説・演義(歴史読み物)などを通じて、人心に深く入り込んでいる。今でも、関公は「武聖」と呼ばれるほか、「富の神」としても知られている。

 関羽は60年近い生涯の中で、群雄と戦い、劉備(Liu Bei)を補佐し、天下三分の大業を完成させた。「忠」「信」「義」「勇」を一身に集めた道徳的模範として後世の人々に推され、封建社会末期の中国では、帝王や将軍、宰相から兵士や農民、実業家に至るまで幅広く崇拝される神聖な偶像となった。

 関帝信仰を研究する独ハンブルク大学(University of Hamburg)の田海(Barend ter Haar)漢学教授は、数千年続く関公精神は、実は中華民族の内なる精神が高度に凝縮されたものだとみている。教授は、恩に報いる術を知り、約束を守り、恩讐分明(おんしゅうぶんめい)な関公の優れた人格は、中国人が常に崇め、語り、目指してきた道徳的模範を体現するものだと述べた。

 田海教授は、関帝信仰は、中国人の精神世界と文化生活に大きな影響を与えたとみている。唐代の「地方性」の民間信仰に始まり、宋・元代には公式な信仰へ、そして明・清代には公式かつ、民間でも流行した「関帝信仰文化」となり、関公のイメージはこれら3つのフェーズの中で進化してきた。1つは、民衆が最初に「三国志」から受けた「勇武・果敢」な性格、もう1つは、役人が伝えたかった「忠・義・礼・信」な性格だ。つまるところ、関羽の「忠義」が強調されるのだ。これを清朝の支配者たちは最大限に利用した。

 中華民国以降、迷信は根絶され、あらゆる民間信仰が影響を受けたが、当時、関羽や岳飛(Yue Fei)などの英雄は、祠廟(しびょう)の廃止対象に含まれておらず、多くの廟が関岳廟に改められた。明・清代以降、民衆は関羽を主に富の神として祀ったが、その理由は関羽の忠義にあった。貿易や商取引では、双方の誠実さや信用が非常に重要であるため、関羽の忠義は商人から特に尊敬され、各地の商工会議所や会館は、皆、関羽を祀っている。

 よって、関公のイメージの再構築とは、実は民間文化と歴代王朝の「正統」な儒家文化との融合なのだ。関公のイメージを形成する過程で、当時の儒家の理想的な人物像が主流となり、万人に崇拝される関公のイメージが出来上がったのだ。(c)CNS/JCM/AFPBB News