【12月25日 CNS】16世紀中期、ポルトガル人が長崎に到来したことは、日本近代史における重要な出来事の一つとされている。同時期、ポルトガル人はマカオにもやって来た。2024年は、マカオが中国に返還されてから25周年を迎える年だ。400年以上にわたり、マカオは中国が世界を見る窓口であり、世界が中国を見る窓口でもあった。マカオは中国・西洋文化交流の舞台として、異なる文明の出会い、衝突、共生の歴史を見守ってきた。

 このほど、暨南大学(Jinan University)文学院古籍研究所の教授である葉農(Ye Nong)氏が、マカオが担う文化的意義についての見解を語った。葉氏は、マカオが中国文明と西洋文明の初期接触において特異な地位を占めていると指摘する。大航海時代、ポルトガル人は世界各地に足跡を残した。中国では当時、明朝が統治しており、ポルトガル人は最初、武力によって中国市場を開拓しようと試みたが失敗した。その後、彼らは戦略を転換し、明朝政府に対して広州市(Guangzhou)での貿易権とマカオ半島での一時的な居住権を求める形に切り替えた。

 当時の中国にとって、マカオは西洋の異文化を展示する「展覧館」のような存在であり、中国初のパン屋が設置された。一方、ポルトガルにとってマカオは極東における重要な貿易拠点であり、ここを経由して胡椒、蘇木(染料)、銀などヨーロッパや東南アジアからの物資を中国に輸出するとともに、中国から大量の絹織物、陶磁器、茶葉を輸入していた。

 しかし、南中国の「文明開化」が西洋人の進出によるものではなかったことは明らかだ。ポルトガル人が到来する以前から、マカオはすでに成熟した文明社会であり、近代的な教育、婚姻、経済制度を備えていた。儒教文化と中国の伝統的な社会観念の影響の下で、マカオでは教育が奨励され、一夫一婦制が採用されていた。また、海洋文明を象徴する媽祖信仰や土地神、灶神などの土着信仰が共存する、多様で寛容な信仰環境が存在していた。

 こうした背景から、「マカオ文化」の最大の特徴はその「共存性」にある。伝統的な儒教文化の枠組みでは、自国の文明を正統と見なし、他文明を秩序ある枠組みの中に組み込むことで調和を保とうとした。国家統治の観点からは、文明間の激しい対立や衝突を避けることが重視されていた。なぜなら、秩序が混乱すると、真っ先に商業活動が打撃を受け、貿易が中断・停滞し、財政収入が急減するからだ。そのため、中国歴代の朝廷は、詳細で慎重な治安規則を制定してきた。

 マカオの多様で繁栄する文化は、中国・西洋文化がそれぞれの強みを持ち、互いに学び合い、対立することなく調和して共存できることを示している。西洋のカトリックやキリスト教、東洋の儒教、仏教、道教、さらには民間信仰が、この地で根付き繁栄したことは、中国の統治システムの成熟ぶりや、包容力に富んだ中華文明の特質を象徴している。

 葉農氏は、現代の中国が西洋文化の有益な要素を受け入れる寛容な姿勢を持つべきだと考えている。そして、自国の文化的特徴と核心的価値観を維持しつつ、文化的実力を高めることで、豊かで多様なグローバル文化景観の構築に貢献すべきだと述べている。(c)CNS/JCM/AFPBB News